投稿者: Onfire Japan

「神様はご自身を求める者に報いを与える 」ビル・ジョンソン

「神様はご自身を求める者に報いを与える 」ビル・ジョンソン

ヘブル11:6、1サムエル17章、マタイ25章 神は「報い」を与える方ですが、「神は報いを与える」という話題はある人々から否定的な反応を引き出します。動機は何でしょうか? 私は与える事を楽しみます、でも何かを神様からもらうために与える事はしません。その人や、働きを敬い、神の国が建て上げられるためです。ギャンブルではなく自分の持っている資材を増加させるために主にささげるのではありません。 しかし、同時に神様は「報いを与える父」である事を無視する事はできないのです。ガラテア6章でいっているように、もし、あなたが種をまいても、刈り取る事がないと思うなら、それは神の約束、契約、ご人格を軽んじている事になるのです。 聖書の中で、報いを受ける事を歩んだ人は誰でしょう。ダビデです、1サムエル17でゴリアテを倒した者は「どうされるのですか」と3度聞きますが、その時に彼の中に信仰が立ち上がるのです。興味深い事はダビデの言葉を聞いた時の「兄」の言葉です。報いの事を聞くと「お前の高慢、自己中心はわかっている」と責めるのです。 神は良い父ですから、子である私達に「奉仕や責任」と「報い」を与え、賜物を管理する「管理人」として育って欲しいと願っているのです。マタイ25章でしもべにタラントを預けた主人の話がありますが、ここではないに等しい人から、一番持っている人に与える事が書かれています。多くの時私達は憐れみと思って、皆に同じ結果を与え、人々が成長し、最善の結果をもって主に仕える事を妨げてしまうのです。 報いを与える神、父は皆さんが繁栄するだけでなく、あなたの周りの人々、状況、国が影響を受けるためにそのようにしてくれます。神の好意は報いを与える事ができますそれは、人々がキリストに惹きつけられるためです。

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「神は自分を差し出す器を通して働かれる」ビル・ジョンソン

「神は自分を差し出す器を通して働かれる」ビル・ジョンソン

イザヤ9;6、7、35:1〜6。マタイ2章6節  クリスマスには「クリスマスストーリー」とよぶ聖書箇所を読み、私達の多くはその箇所に親しんでいます。その他には「ダビデとゴリアテの戦い」「クジラに飲まれたヨナ」「ノアの箱船」などですが、慣れ親しんでしまう難点は、そのみ言葉が剣として語っている、機能している「刃」の部分を失ってしまう事です。 今日はクリスマスのメッセージ、救い主が来る、来た事を話しましょう。 イザヤ書は預言書ですから、預言的に読むことが必要です。預言的に読むとは、たとえを用いて神が話される事を理解する事です。イザヤ書9章6、7節では「男の子」が与えられた、その名は「永遠の父」とあります。イエスは天の父の栄光の輝きですから、このようなユニークな事になるのです。そして「主権は肩にあり」とありますが、肩とはなんでしょう。教会の頭はキリストで、体はキリストです。肩は体ですから、統治する権威は私達に与えられています。息子、御子が来たのは父を現す為です。子は父を現すのです。私達も息子、娘であり初めて上手に父を現すことができるようになるのです。 「統治者」と「羊飼い」をイエスは同じ働きとしています。それはマタイ2章6節から見る事ができます。統治する事は、牧者であることであり、それは羊を守り、養うことです。その為の特権であり、統治者が自分のヴィジョンの達成の為に下にいる人々を使うことはできないのです。 イザヤ書の35章で、神様と私達のパートナシップを持って働く事が見えます。3節は命令であり私達が弱っている人、恐れている人に「恐れるな、嘘を信じてはならない。神はあなたを助ける」というならば、「そのとき」と書かれていますが、その後に、神が好意をもって働かれるのです。そのような約束です。私達が問題や葛藤のある人に「恐れるな、神はあなたを守る」と宣言、祈る、預言するならば、それは神の好意、恵の働きを解き放つものです。共同作業なのです。また、神はあなたの重要性ではなく、あなたが自分を差し出しているから、用いて働かれるのです。

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「危機と成功の中で主を求める 」エリック・ジョンソン

2歴代誌20:1〜25 聖書の中に多くの王が出てきますが、悲しいことに多くの王は主に仕えること、求めることで失敗しています。しかし、ヨシャパテ王は非常な成功の中でも、大きな危機の中でも主を求めることをした王です。 ヨシャパテ王は、主に求め、導きを伺ったことで主によって繁栄させられ、強固な軍隊を持ち、敵国からも贈り物をうけとり豊かになり倉庫の街を広げなければならないほどでした。私たちは神様しか頼れない状態、環境にある時には主を求めることが自然ですが、繁栄し、必要が満たされている時にはどうでしょうか? ヨシャパテ王に敵の軍隊が向かってきた時に、彼は恐れ、主を求め、断食を布告しました。そしてイスラエルの神に向かって「あなたが私達の父達を解放し、助ける、あなたと対抗できる者はない神ではないのですか」と聞くのです。彼はここで神を疑問視したのではなく「あなたですよね?」とすでに現されている神の御人格を示してくださるように願うのです。これは、素晴らしいのです。私達も人生で恐れ、疲れ、神の助けがなかなか来ないと思う事があります、しかし問題はその思いを神ご自身に語らずに、友人にはなしていることです。神ご自身に聞いてください、神は答えます。そのように期待していますか?答えがあなたのきたいどうりではないかもしれないですが。あなたが願う、伺うことなしに神は答えることができません。神は非常にエキサイトして待っているのです。 神は「この戦いは神の戦いなので、あな他はしっかり立て見ていよ」と指示を出したのに、ヨシャパテは賛美チームを軍隊の一番前にだします。ユダという意味は賛美です、ユダのアイデンティティーは賛美する者、感謝する者です。真のアイデンティティーは最強の武器です。あなたのアイデンティティーを見つけ、それを生きることをることをあなたの人生の目的にしてください。

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「全ての状況の中の希望」ビル・ジョンソン

ゼカリヤ9:12〜14、17。10:1、7  以前にも話をしましたが、神様は「回復の主」であるので、回復をされる方です。敵が悪の為に行なう事を神は良い事に変える事ができるのですから、信者が聖書的に考える思考を持って、考えるならどのような状況でも、恐れて引き下がるのではなく反対に「これは2倍に受けるチャンスが来た」と問題や困難の中を通る事が出来るのです。私達は時間の中にいますが、神様は時間の外にいて、すでに全ての事を完了された所から私達に接してくれるのです。ですから、どんな問題、困難であっても、神様によって、既に解決や答えが準備されていない事柄は、私達の人生にやってくる事がないのです。 これは、希望です。あなたがある状況や課題をみてそこに希望がない時には、嘘によって影響されている視野によってあなたがそれを見ているのです。 祈りの答えを待つ時にも、沢山祈ったけど、答えがないと思うなら、「神様が私に何を話したいのか」を聞く事を実践してください、主の声に親しくなりましょう。また、自分の大きな、究極的な願いを神様が答えてくれる事によって、神様を試みる事を無意識に私達がしているのを知っていますか?しかし、大きな祈りの答えは「私達が答え、祝福をもらった時にそれによって破壊されないように、それに十分な器に成長する過程」も共に、小さな答えでくるのです。 ゼカリヤ10:7、エフライムの意味は「繁栄、多く実をならせる、勢い」という意味がありますが、その後の「勇士」からこれは特に兄弟達に語りたいのです。男性の中の男性が窒息しそうな主の喜び、臨在を外からの影響によって受けて、まるでワインで酔っているように喜ぶ時に、次の世代の模範となり、子供達、次の世代までが収穫され、主を喜ぶのです。 10:3ではユダを主が訪れ、彼らを戦場の軍馬のようにされるとあります。軍馬は戦場で恐れる事なく、忠実で、持ち主に益を与える事ができます。そのように、ユダ、賛美をする者達は、主が訪れる時に、関係の中から溢れでる賛美を捧げる、集中を切らさない、戦う事ができる者とされます。 

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「神様の心は回復する事」ビル・ジョンソン

ハガイ2;9、ヨブ記42:10  神様は「回復」をされる神であり、これはご自身の「人格」であり、終わりの日に知られなければならないものです。神様が約束しているのは「神の良さが終わりの日には地上に神を畏れる事」がもたらされる。ということです。神の「良さ」「回復」はまるでスキャンダルのように、あってはならないような、ありえないような「善意」があり、パウロが「めぐみが溢れる為に罪を犯すべきでしょうか?そうではない」 と言っています。神の回復というのは、最初よりももっと良いものとされるのです。 たとえば、ヨセフの人生もみてください、彼は兄弟達に奴隷として売り飛ばされ、嘘の情報で捕まり、牢獄に入れられ、しかし結果的にはエジプトで2番目の地位になり、治めました。かれが自分でそれを達成しようとしたならば、もっと時間がかかっても出来なかったかもしれませんが、ヨセフの人生は「神の贖い、回復」の人生です。 ハガイ書にあるのは「のちの家の栄光は今よりも大きくなる」事です。これは神殿の事を語っていますが、究極的な最後の神殿は「私たち信者」なのです。私たちが新生するのは最初のターゲットで、それはキリストが私のうちに内住されるという神様の計画の成就の為の為です。 ヨブは人生から全て取られた時、数名の助言をする友人が来て、ひどい事を長時間語り、裁き、間違った裁きをヨブにもたらし、苦難をヨブにもたらしました。しかし、最後に主が現れ、助言者友人たちをしかり、ヨブにささげものを持ってきて、ヨブに祈ってもらうなら私はそれを聞こうと言われました。神はヨブの人生を回復しますが、その過程で、ヨブをひどく苦しめた友人たちを赦し、祈る事を要求しました。赦しは神の回復を注ぐ場所を作りました。祈った後、神様はヨブの持ち物を2倍に増されました。回復されました。

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「天国の本質は前進すること」ダニー・シルク

出エジプト 23:28 〜30  1歴代誌 4:10 士師記13:18  今日皆さんに話したいことは「ヤベツの祈り」のところで要約できるようなことです。ビルジョンソンはこう言います「自分が祝福され、繁栄することを求めないことは自己中心である。なぜならあなたの繁栄や祝福はあなたの周りの人々や状況に対して影響を与えるものだからです」 。出エジプト23章では神は民に「あなたの前に熊蜂(超自然な力)を送り、あなたの前から敵を追い出そう。しかし一歩一歩であり、一度に全ての敵を追い出してもあなたにはまだ、私があなたに与えている相続地すべてを所有し、満たすことができないからだ。」と語っています。私達の宣言は神様が作ってくれた、実をならせ、所有できる場所に対して前進すること、一歩進むこと、反対勢力があるところでも諦めず、夢をみて、戦うのです。そして、私達が前進することを選ぶなら、葛藤し、成長することが要求されます。でも、神様はその一歩を進める場所を下さるのです。 私が若い時には、自分がその時に所有できる境界線を越えて高級車を買って、6ヶ月しか所有できず、しかも12年でローン返済しなくてはならなかったのです。痛いレッスンでしたが、神様がその時にくれていた、所有できる境界線を越えて、一歩ずつ前進する事ができなかった愚かさの故でした。神様は偉大な方です、非常に大きなものを私達一人一人に与えているのです、あなたの最も大胆だと思える夢ですら、神様の前には小さいものです。 神様を人は制限し、箱に詰めてしまう傾向がありますが、イスラエルや、マノアは主の使いに「あなたの名前はなんですか」と聞きますが、主は「不思議である」と答え、その「名前」の意味は「制限、境界線」というヘブル語の意味もあります、私たちは名前をつけることにより、大きさを変え、境界線を引き、制限をするのですが、神様はの統治は止まることがない、不可能な事は何もないお方なのです。

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「愛 対 恐れ」ビル・ジョンソン

イザヤ51:12〜13、54:14。1ヨハネ4:18〜21  私達の人生に非常に大きく影響する視野、フィルターのようなものが2つあります。 それは、「愛」「恐れ」です。 「愛」のフィルターのある人は試練の中でも神様の良さを見つけ、良い知らせの中を歩む事ができます。しかし「恐れ」のフィルターがある人は、いつでも心配、恐れ、焦りにつながってしまうでしょう。 神は何度も「恐れてはならない」と聖書の中で命じています、これは命令です。感謝です、神が命じているなら、それは私達ができない事ではなく、神の恵みによってその中を歩む事が出来る事なのです。ギデオンの軍隊の事を考えてください。神は軍隊で恐れている者を返し、少ない人数で戦わせました。そのように神があなたを戦いの中に導くなら、すでにあなたは戦いの準備ができているのです。恵みがあるのです。  人が敵の嘘に同意して、受け入れた時に敵は力を増大します。ですから、普通に考えて、心配しそうな状況があったり、恐れの感情がある事は罪ではないのですが、その嘘を信じる事、同意する事は罪ですから、私達は同意しない選択をするべきですし、これは選択できるのです。 イザヤ51章では「わたしがあなたをなぐさめるのに、なぜあなたは人をおそれるのか」と主は言います。主はどんな方でしょうか?主が共におられ、慰めてくださるのです。主は信頼に価する方ですし、信者は御人格を知り、主ご自身が与えてくれた約束、御言葉で自分の果たすべき責任、それは、御言葉の真理によって自分がしっかりと真理にとどまる事です。私は御言葉をカードにし、コンピューターにいれ、宣言し、黙想し、自分が受け取った約束を忘れないように働きます。また、54:14にあるように、「虐げ」とは「圧迫」であり、それは人間の思いから、肉の罪から派生し、そこに悪霊がやってきて、足がかりを作るのです。私達が「恐れない」ならば、「圧迫ー霊の領域から暗い雲がやってくる事」は近づきません。  1ヨハネの「全き愛」は、ただ神からの愛を心に受けるのではなく、その愛をもって仕える事で「全き愛とされる」のです。見えない領域での神との体験は、見えるように表せれる必要があるのです。

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「陶器師と粘土」エリック・ジョンソン

2コリント5;15〜17 ガラテヤ5:1  祈りによって私は自分の間違った神学に気がつかされるのですが、皆さんはどうですか?今まで「神様 私の人生のあなたの御心はなんですか」と祈った事はありますか?そうです、それです。 2コリ5:15を見てください、あなたは既に「自分」ではなく「キリスト」の為に生きる者とされたのです。ですから、あなたの人生は「あなた」の為ではなく、主イエスの為に生きる事が神様の御心です。これは、自分の肉との葛藤だけではなく、特にアメリカや欧米の「自分中心」の文化においては、非常に難しいチャレンジです。自分中心である事が日常であり、日々語ってくる「自分が何をするか」が大事という文化の声に対して、逆行することです。 具体的には「肉によって、人間の基準によって自分の事をも、人の事をも見ない」事です、それは「あなたの中にある栄光の望みであるキリスト」の事ですが、人々をあなたの中にいるキリストを通して見る事であり、相手にキリストがいる事を見る事です。なぜなら「キリストの中」にあるのですから。全てが新しくなった人であるなら、奴隷から自由人にされたのです。ですから、自由にされた戦いの後の、自由であり続ける戦いにも勝利するのです。 私達は「神が陶器師であり、私は粘土」と言いますが、陶器師の仕事は激しい、力仕事です。粘土はまず、練られ、水を加えられ、高速で回るろくろに乗せられます。そして、周りが見えないような早さで、造形され、そして火に入れられます。火で焼かれていると感じるなら、その状況から逃れたいと思うなら、まず、文句を言う事を止めましょう。私達の人生も、火の中で「形を保ち続けられない」ならば、もう一度同じ工程を神様は歩ませるでしょう。あなたが同じような葛藤を繰り返すなら、その事を覚えてください。自分がこの工程を通る事は嬉しく無いですが、キリストの中にあるので、あなたの中にキリストが形造られる工程があるのです。それが神様の働きです。

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「深みが深みを呼ぶ」ビル・ジョンソン

創世記7:11 詩篇84:6  神様は聖書の中で「自然の領域が先、次が霊の領域」である事を教えています。また例えを用いて語られますが、雨はなんでしょうか?聖霊の注ぎです。 創世記7:11に「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた」とあります。これは、ノアの洪水のところですが、旧約の視野では裁き、滅亡でした。しかし、新約の視野で見ていると「回復、再建」といえるでしょう。英語の聖書では「巨大な水の深み、淵」とあるので、この水は私達の心の深い所をも指し示しています。私達信者が新生した時に神の事に対しての情熱をもって生まれてきますが、心の奥がその情熱、求める心、必要を見て神がそこで働く事ができる事を信じるゆえに、心が砕かれ、神を呼び求める時に、すでに天において神が行っている事を地に注がれるのです。 神様は必要に答えられますが、必要自体が神様の働きを解き放つなら、最も貧しい国は明日にも、もっとも豊かになるでしょう。必要がある事自体が神を惹きつけるのではなく、必要を見た信者の信仰に神様は引き寄せられるのです。祈りと信仰の行いのコンビネーションが必要です。ノアの時代に洪水の水が地上を覆った事を新約の視野で見るなら、それは主の栄光、御霊の注ぎが地上を覆うことであると信じます。ですから、主はそのような注ぐ事を与える事ができる器の人々を、求めています。詩篇84:6から見る事ができる事は、私達が涙の谷を人生で歩む時に、それは「砕かれた心」を持つ事になり、そこで賛美と感謝を捧げる時に、それは「泉」を湧き出させ、リフレッシュを与え、天からの御霊の注ぎによって水たまりができるほどになるのです。失望や、落胆の中でも主に感謝と賛美をささげましょう。それは結果的に私達の環境を変える事になります。私達の深みが砕かれ、現れる時、主が天からの雨を、御霊を注いでそこに答えてくれるのです。

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「宣教と祝福」ビル・ジョンソン

2コリント9:6〜11、ピリピ4;10〜19、ホセア10:12  ベテル教会は、しばしば「祝福を受けたい人の集まり」と嘲笑されましたが、私の態度は「それのどこに問題があるのですが?」というものです。なぜならば、私達はもらった物を全て与えるからです。私達が祝福を受けることはそれを与える為です。2コリ9章、ピリピ4章これらは2つとも「祝福と繁栄」に関する約束であり、表面的には「個人的な繁栄」の事が書かれています。神は私達を繁栄させ、祝福する事を願っています。2コリ6章には、その為に「全て」に対して「常に」「あらゆる」恵みを溢れるばかりに与えます。神は豊かに与える方です。無駄はしませんが、豪華に豊かに与えるのが神様の本質です。10節にあるように「食べるパン」は私達を保ち、「蒔く種」は私達が投資する、与える為です。義の実とは、私達がキリストの内に置かれ、神の義とされましたが、その義なる行いをする事によって「義の実」は現れます。 ピリピ4章では、パウロはピリピの人々から支えられて、テサロニケで奉仕していたのがわかりますが、この「支え、支援」は「神が喜んで受けてくださる供物」であり、自然の領域では「物や経済をパウロに与える」ですが、神の御国の世界観では「神が喜んで受ける捧げ物」になり、2コリにあるように「惜しみなく与え、神への感謝になる」となるのです。コリントでは興味深い事にパウロはテントメーカーとして市場で働きました、リバイバルが集会の講壇から起こっていたのではなく、市場で人にキリストを現す事から始まっていたからです。 私達の祝福と宣教には繋がりがあります。「豊かに与える事」は私達の打ち破りに関係しているのです。私は時に「数年葛藤しているのです」といってくる人に「豊かに与えるべきかもしれないですね」と励まします。また、信者が受ける事ができる、神からの満たしの資源は、私達の信仰や、仕事の状況、住居地などに関係せず、それらは「キリストイエスにあるご自身の栄光の富」から来るのです。

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